BOND of UNION
from st.teera

world from east-azumabashi

たとえば、無駄な時間があるとしたら、まさに今がそうではないだろうか。
笑顔をたたえた大勢の人々。死ぬほど聞いた、聞き飽きたお世辞の数々。
使い回された讃辞の言葉。
あまりにも、ありふれていて耳が腐りそうな台詞。そんな雑音ばかりが渦巻いている、この宮殿ー。

ティーラ・パレスの回廊を歩くアクアの周りには、そんなものが群れをなしていた。
集団で、舞踏でもするつもりなのだろうか。足をとめないアクアの周囲を輪になって、人々がついてくる。

「アクア殿の武勲はとどまるところを知りませんな。いや、羨ましい限りだ。我が息子にはぜひアクア殿の
ような参謀に育って欲しいと、常日頃からいい聞かせているのです」

アクアは絶やさぬ微笑で、人々を魅了した。

「カルバ殿の御子ならば、そのように叱咤激励をする必要もないではありませんか。良き血をご両親から受け継いでおられるでしょう?」

その一言が聞きたかったとばかりに、老人は目尻を下げる。この男も生まれのよい、凡庸な、ただの人間だ。
そのように言われて、嬉しくないはずはない。そう判っているからこそ、言ったのだ。
微笑みの裏にアクアは蔑みの視線を綺麗に隠していた。自分の一言がどのように相手の心を捕らえ、その虚栄心を満足させるか。
その人物の経歴とティーラ・パレスでの地位を考慮すれば、自然と答えは出てくる。
それをアクアはただ口にしているだけだった。その言葉に心が込められているか、いないかなど、誰にもわからない。
本人にしか判らないことなのだから。
もちろん、このような場合、口からでるのはお世辞どころか、心に微塵もない嘘偽りだった。
だが、そのようなことはアクアの綺麗な微笑みひとつで、どうとでも誤魔化せることだった。
誰も知りえないことだ。本当の心の内など…。そしてそれを悟られるほど、アクアは愚かではない。

「御父上は幸せだ。アクア殿のような御子息をおもちになって…」
「まことに。アクア様、もうすぐ私の一人娘が15の誕生日を迎えますの。もし御暇でしたら、ぜひ祝賀の宴にいらしてくださいませね」

脂肪の乗り切った年配の貴婦人が、ぽってりとした頬で微笑む。

「王命さえ、なければいつなりと…」

深い紫の、アクアの瞳をむけられて、貴婦人が羽扇をはためかせた。
この婦人の娘の誕生日は2ヶ月後。アクアは調度、出陣の時である。
いちいち受け答えしているのも、次第に億劫になる人数である。
回廊の外に広がる庭園に目を移すと、春をわずかに過ぎた木漏れ日は瞳に優しい。
贅を尽くした庭には噴水が上がり、飛沫が虹を映し出している。
このような人間相手に時間を浪費するには勿体無いような空だった。
そうそうに切り上げるほうが自分の為だと思い、アクアは他愛ない台詞で、人々を撒くことにした。

「私はそろそろ失礼して、執務室に戻りましょう。このようなところで皆様にお会いでして心地よい一時を過ごせたのは幸運でした。
どうです?もしお暇でしたら、お庭などを散歩されては?あの噴水あたりは虹など映り、大変、綺麗でしたから、お美しい方々は
ぜひいかれるべきですよ」

アクアは手近にいた婦人に微笑みを投げかけると、厳かにその場を辞した。
回廊には溜息混じりの貴婦人達と、保身に忙しい貴族達が残される。

「ほんとうに…どこまでもよくできた御方ですわねー。つけいる隙もございませんわ…」
「あたりまえですわ。アクア様は特別ですもの」
「そうそう…。その辺のしがない貴族の子弟と一緒にされてはいい迷惑というものー」

女性というものは、甘い声を掛けるとすぐに舞い上がりがちな動物である。
後ろから聞こえてくる讃辞に、豪華なマントの下で肩を落としながらアクアは回廊を抜け出していった。
ちょうど、自宅に帰ろうとした矢先に、あの道楽集団に出喰わしてしまっただけなのだ。
思わぬところで時間を無駄にしてしまった…声なく、愚痴を零す。回廊を歩いていたのは、30分弱。大きな浪費である。

「今日はさっさと帰って、新しく入った紅茶を試そうと思っていたのに」

つかつかと、足を進めていく。もうこれ以上、宮殿にいて、また誰かに会うのは御免だった。
そして、ふと…思いつく。
貴族集団のせいで、思わぬ方向に歩いていたのだが、ここからだと、例の場所が近かったー。
アクアは立ちとまる。紫色で統一された春用のマントが一陣の風にあおらけた。
「気分転換でもしていくか…。あれだけの人数を相手にするとどうもな〜」
そうして、アクアは恐らく、この宮殿で知っている者がいないだろう、ある場所へ足を進めていった。




華やかな輝きと彩りに満ちたティーラ・パレスにも、忘れられた影はある。
名門貴族の子弟として、このティーラ・パレスに出入りするようになってから、一体何年がたったのか。
そんなことを気にする必要もないほどに、アクアの生きる世界は、この宮殿と密着していた。
「力」というものは、すべてこの輝く宮殿の中に凝縮されている。ありとあらゆる権力がここに存在している。
力ある者と、ない者の差をまざまざと見せつけてくる、この世界の中で、アクアは何を以って自らをたてるべきかを幼い頃から知っていた。
そして、そうなるべく努力をしてきた。だからこそ、今、この地位にいるのだ。
高貴な血統と、実力。際立って、整った外見はそれらをさらに誇張する。
手に入れたいと思うものはすべて手に入れる。そのための力をアクアは充分にもっているつもりだった。

そうー。
ただ1つの例外を除いては…。

そんな例外は、アクアの前に今、ぼんやりと佇んでいた。

遠く、彼方。回廊から宮殿の奥の奥。1日にここを通る人間が果たしているだろうか。
もしかするともう知らない人間の方が多いのだろう、この場所。
そこは、この華やかに巨大な宮殿の奥深い影だ。
入り組んで増築された、この豪華な宮殿のーーー忘れられた北向の断崖にむけて据えられた大砲塔。
崖から吹き上げる風があまりにも強い為、使用されることはなかった。その後、増築の際の作業用通路にもなったが、作業終了後は厚い鉄扉を据えられ、そのまま忘れ去られた。
この宮殿にしては造りは質素な塔だ。灰色の大理石の壁に硬質の大理石をびっしりと敷き詰めた床。それ以外は何も手を加えられていない。
そんな質素さが、彼は気に入ったのだろうか…。

回廊の端にある、バルコニーに、彼はひとりで立っていた。
見慣れぬ後姿に、アクアは足をとめた。なぜかそうさせる雰囲気が彼の背中にはあった。
貴族生まれのアクアと違って、派手な衣服を一切好まない彼は、質素な浅黄色の長着を身に付けている。
若草色にも似た、その色は彼の、日に焼けた金色の長い髪とよく似合っていた。
長い回廊から、外に突き出したバルコニー。その向こうに広がるのは北の断崖である。
腰丈までの鉄柵で囲われたそこから、一体何を見つめているのだろうか。北の果てに広がる断崖だけを見つめているのだろうかー。
壁に身体を預けた、背の高い、静かな後姿。
その面は外にむけられたままだ。

例えば、の例外ーーー。
アクアにとって、彼はそういう存在だった。
初めて会ったときから、そうだった。存在はずっと以前から知っていた。そして、突然、出会うのだ。
いつでも……。そう、こんな風に。

アクアが、その力にものをいわせて、御し得なかった初めての人物。
それが、彼だった。
意外性というものが、自分の中にあるということを彼はいつも教えてくれる。こんな風に、自分しか知らないだろうと思っていた「逃げ場所」に、立っていて…アクアを驚かせる。
アクアは言葉なく、その姿を見つめた。声を掛けるのが、ためらわれる。自分がひとりで、ここに立っていたならば、やはり声を掛けられるのはいやだ。
そう思い、アクアはそっとバルコニーから立ち去る事にした。これだけの距離ならぱ恐らく気がついてはいないだろう。
アクアが音をたてずに、去ろうとした時ーー。

「どうした?こんなところにくるなんて珍しいな」

カツ、と失敗の踵が鳴った。気がついていないと思ったアクアの方が甘かった。彼は戦士なのだから、気づかぬはずはない。仕方なく、振り返る。

「それはこちらの台詞だ。こんなところで何をしているんだ?ゼネラ


着ている主の瞳と同じ色をしたマントが、歩く度にバルコニーから流れる風に揺れる。いつもながらの華やかな恋人の姿に、ゼネラは目を細めて、微笑んだ。

「俺は結構ここには来てるんだ。なんとなくね。ここの景色が気に入ってるのさ…」
「景色って…ここは崖しかないだろう?」

景色といえるほどの、綺麗なものなどないはずだ。
アクアがバルコニーに近づく。
風の音が強くなる。切立った崖の狭間を吹き上げる風が、轟音を唸らせているのが肌で判る。

「相変わらず、すごい風だな」
「風向きは、まあ気まぐれだが、ここまで入ってくることはない」
「そうだが…」

アクアは少しだけ、身を乗り出して、外を見る。
ゼネラがたった一人で、ずっと見つめていたものは何なのか。自分が何度もここに足を運んでいて、見落としていたものが何かあったのだろうか。気になって、外を見回す。

「何をしている?」

壁に背中を預けたまま、ゼネラはその不思議なアクアの行動を問う。

「いや、何かあるのかと思って…」
「別におもしろいものなんて、何もないぞ」

その言葉通り、いくら身を乗り出してみても、あるのはいつも通りの崖と所々から突き出た枯木くらいだ。
いつもアクアがみていた風景となんら変わりはない。

「なあ、何をみていたんだ?熱心にずっとみていただろう?」

アクアはゼネラと向き合って、壁に凭れかかった。腕を組んで、紫色の瞳で見つめてみる。
とてもアクアより年下とは思えないほどの、老成した表情を持つ戦士が、ふいと視線を逸らし、遠い目を外に向けた。

「べつに。崖をみていただけだ」
「崖?」
「ここにくると、ティーラ・パレスにいると思えないほど落ち着けるからな。暇があると、ついきてしまう」

そう答えて、ゼネラは普段、宮殿の中ではみせることのない、穏やかで、どこかぼんやりとした表情を浮かべた。
その姿はアクアを内心驚かせる。
彼は、生粋の貴族と違い、ゼネラは一般の下町生まれだった。本来ならばありえないことだが、ゼネラは現王の特別な計らいで宮殿にあがり、その類稀な力を持って、部隊長の地位まで昇進した。以前はその生まれ故に蔑まれ、陰口も多かったが、今となっては生来の能力がそうさせたのだということを誰1人、疑う者はいないだろう。
それでもーー。
宮殿の水が肌に合わないということだけは、ゼネラ自身にとっては仕方のないことだった。貴族文化が財力にものをいわせて、宮殿内に繰り広げている飽食の生活は、つつましく日々を過ごす下町育ちのゼネラには理解しがたいものだった。
貴族からすれば、それはゼネラの育ちが悪いということになるのかもしれない。
だが育ちの問題など、ゼネラには関係のないことだった。育ちが悪くて何が悪いのか。
実力のない者が血筋だけで上官になれることのほうが罪悪だ。戦士であるゼネラにとっては、無能な上官ほど頭にくるものはないからだ。
そして、そんな考え方はアクアと共通するものだった。

「そんなにティーラ・パレスは居心地悪いか?」
「悪い」

きっぱりと言い切られて、アクアは頭を掻いた。どういわれても、貴族育ちのアクアには豪華であることの何が悪いのか、よく判らないのだ。慣れというものだろうか。

「派手にするにも限度ってものがある。ここまでくると、気色悪いの部類だ。実用的でなさ過ぎる」
「それで、こんなところを見つけだして逃げ出してくる訳だ」
「おまえだって逃げてきたんだろう?どうせまた、いつものうるさい貴族連中にでも追いまわされてきたんだろう?放っておけばいいんだ、
そんな奴らは」
「……なんで判った?」
「そんなこと、その顔をみれば判るさ。無駄に時間をつかわされてきた!…って眼をしているよ」

軽く笑い飛ばすゼネラに、アクアは思わず自分の顔を覆った。
自分ではそんなに感情が顔にでるタイプではないはずなのだ。
でも、それでもーーいつもこうだ、とアクアは思う。
出会って、自分から仕掛けた時から、彼はこうだった。
頭の中で充分に策を講じてきたはずなのに、ゼネラはアクア自身が創り上げてきた仮面の下から、奥底の感情をいつも引き出して、それを当ててしまう。本来のアクアならば、そのような失態は自分で許せない処だ。

けれどーーー。
どうも負けてしまうのだ。アクアの心の何処かで、自分の自尊心が彼によって砕かれることをよしとしてしまう節がある。

負ける相手が、「彼」であるならば……。

「アクア?」

腕組をしたまま、黙り込んでしまったアクアに、ゼネラは不審そうに、その白く艶やかな頬に触れる。
ふい、とその指先を左手で無碍に弾き、アクアは床を蹴った。

「まったく!何がどうしてなんだか、判らないな」
「は?なにが?」
「理由があるってのが、ますます許せない」
「なにをいってるんだ?」
「別に。なんでもないさ」

アクアの瞳に浮かぶ、不快感と羞恥が混じった輝きに、ゼネラは首を傾げるしかない。何かに躊躇い、地団駄を踏む、その姿は今までゼネラがみた事のないものだった。

「じろじろ見るな。憎たらしい奴だ」
「はあ?なんだってんだ」

このときばかりは、アクアは自分の理路整然とした思考回路を憎んだ。
自分が彼に負ける理由。負けても良いと思える理由。それを考え、辿りついた「理由」というものが、アクア自身、最も恥ずべきことのような気がしたのだ。
俺としたことが…とか、ぶつぶつと未だ独り言のように文句を綴るアクアに、ゼネラは笑った。
こんな風に、混乱した顔を他人には決してみせないアクアだ。それを見つめていいのは、ゼネラだけの特権だった。

「アクア、こいよ」
「ん?」
「ほら。あそこ。あの一番、大きい老木の根元のところ…。見えるか?」

ゼネラが指した崖を、アクアは眼を細めてじっとみた。切立った岩の断層が幾重にも積み重なった崖に、突き出した古木の根元に何か動いているような気がする。目の錯覚のようにも感じるが、ゼネラの視力ならばみえるのだろう。
ふっと吹き上げた風に刺激され、渇いた眼に涙がさした。その瞬間、視界が急に鮮明になった。
大鷲だった。
ゼネラはアクアの肩越しに、別の方向も指した。そこにもやはり似たような影が動いている。

「あれは…」
「この崖を住みかにしている鷲は多いんだ。その中でも、あれが一番古株だな。俺がここにきた時にはもういたからな…。かなりの年だろうな」
「俺も昔から来てたけど、鳥がいたなんて全く気がつかなかった」

ゼネラの視力でも、豆粒くらいにしかみえないだろう。それでも、その視線は酷く穏やかで安らぎに満ちている。
それはやはり他人が見てはいけない聖域だった気が、アクアにはした。立つ場所が違えば、それはただの「隙」となってしまう。
戦場に常に身を置く、ゼネラが、命も、勝利も、なにを気にすることもなく、たった1人になる世界…・

「あれをみていたのか」
「それだけってこともないさ。ただ、ぼんやりするには…ここはいい場所だからな」
「そんなに昔から来ているのに、ただの一度も出くわさないっていうのも不思議なものだな」
「そうだな」

無秩序に吹いてくる風の、崖の隙間を抜ける耳鳴りのような音も、慣れてしまえば心地よい。
ましてや春の風だ。
少しだけ、午後の過ぎた風は温かく、時折、頬を撫でるのも気持ちの良いものだった。
腰丈までの鉄柵は決して優雅ではないし、近づいてみれば、少々怖いものがある。
アクアは錆のついた柵に手をかけた。
溶接部分が錆びて腐食した柵を、屈みながらゆっくりと検分していく。腐食色は例えるなら乾れた緑。
それはアクアに誰かの瞳の色を思い出させた。

「この柵も古くなったな…。換えたほうがいいんじゃないかな?」
「気をつけろよ、簡単に落ちるからな」

アクアは笑った。
どうして直す必要があるだろう。どうせ誰も来ることのない場所だ。柵を換えようが無意味なことだ。この錆びは過ぎた時間の証だ。

「換えても意味ないよな。俺達が気をつければいいだけのことだ」

立ち上がった時、長い髪を束ねる布に付けていたアメジストの飾りが柵に、カツとひっかかった。
気にして身を引いた拍子に、布が風を含み、外れかける。
その時、いきなり酷く強い力で、アクアは強引に身体をバルコニーから引き離された。
無理に身体を後ろにひっぱられ、アメジストはブツと音を残して布から外れ、そのまま崖下に落ちていった。

「あっ…」
「なんだ?何か落ちたのか?」
「布飾りのアメジストが落ちただけだ」

ゼネラは揺れたアクアの身体を片手で支えながら、下を覗く。無論、今更みえるはずもない。
アクアは溜息をもらし、自分の身体を抱え込む相手を押し離す。

「俺が落ちる訳がないだろう。そんな力一杯ひっぱるな。痛いじゃないか!少しは加減しろ」

ゼネラが仕方なく両手を広げて開放すると、アクアは乱れたマントを正しながら、睨みつける。こんな風に、歴然とした差を感じさせられる瞬間や、自分が守られているような気持ちを覚えるときは一番、アクアにとって居心地が悪い。

「別に誰がみているわけでもないんだし、そんなに気にする必要もないと思うが…」
「それとこれとは話は別だ」
「そんなもんかね」

いつまでたっても、肩肘を張った姿勢を崩したがらないアクアに、ゼネラは笑みを堪えるしかない。
アクア自身は気がついていない様だが、そうしたいつまでも頑なな姿勢こそが酷く自分を喜ばせ、ひきつけるものなのだ。

「もったいないことをしたな…高いのに…」
「ん?落ちたアメジストのことか?あれくらいのもの、いくらでもあるさ」

アクアは落ちた飾りの付いていた布の端を指で摘み上げた。
留めてあった部分が綻び、穴があいている。
特に惜しむふうでもない姿に、ゼネラはつい溜息をこぼす。

「これだから……金持ちっていうのは嫌いなんだーー」

「……嫌いになれば?」

愉快そうに笑いながら、アクアは未だに髪に絡む布を外した。途端にふわっと風に吹き乱される。
その黒く長い髪にゼネラは眼を細めた。参謀職ゆえに、力仕事とは大概無縁なアクアの、長い指が乱れる髪を何度か梳く。
日差しを吸い込んだ黒髪が纏まって、散り散りとなびく様を見つめながら、ゼネラは肩を竦めた。
宮殿のお抱えの詩人が『天から零れ落ちた紫の水晶のようだ』、と称したアクアの瞳。黒い睫が刷いたような濃い色を与え、更に艶を増す。
この瞳で、そんな視線で、ゼネラだけを見つめる癖に…。嫌いになれって?

「そんなことーー」

あるわけがないのだ。
ゼネラの肩に、長い指が届く。
優雅な仕草で、髪を梳いて、誘う。
それだけで充分だった。
最後の切欠は必ずアクア自身が与えてくれる。ゼネラはそれを逃さない。逃さなければいいのだ。
こうしてゼネラがそっと頬に触れれば、アクアは誰よりも確かな鼓動で自らを与えてくれる。
寄せれた唇が触れるよりも先に、そっと瞼が閉じられ、消える瞬間の紫の瞳の色を見つめるのが、
ゼネラは好きだった。

こうしている瞬間にように……。

風になびく髪をかき寄せるように、お互いに抱きしめると、いつも時が止まるようだった。
不確かな「千年の王国」よりも、確かなものだ。

数秒の沈黙を貪る2人に、風が吹き付ける。
アクアは手にしていた布を、風に流されるまま、捨てた。

「仕事はもう終わったのか?」
「ああ」

ゼネラが瞳を覗き込んだまま、答える。
アクアは支えていた壁から、そっと背を浮かせた。

「じゃあ、これから家にこないか?珍しい紅茶が手に入ったんだ」
「いいな」
「よし」

アクアは目の前の、胸を押しのけ先に歩き出す。その背中をゼネラの手が軽く押す。
いつもなら、振り払いたくなるところだが、今日は我慢した。

「これがなあ……***弱みってヤツだろうなぁ…」

その呟きを聞き取れなかったゼネラが不思議そうな顔をする。それが妙に幼く、年相応にみせている。
ゼネラの聡くて、鈍いところも…仕方ないのだ。こうなってしまえば誰でも仕方ないじゃないか。
その感情を否定するほど、アクアは幼くもなく、愚かでもなかった。

「なにかいっただろ?」
「いや…。ゼネラは知らなくていいんだよ、これだけは」

意味深な微笑みを返すだけのアクアにゼネラは顔一杯に、疑問符を浮かべるがどうやら答えてはくれないらしい。

諦めたアクアの溜息と、ゼネラの疑問をそのままにして、2人は鉄の扉を開けた。


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